土曜日, 3月 28, 2015

久良岐能舞台

 横浜磯子区の久良岐公園の中に能舞台がある。大正6年に日比谷に建てたものが昭和59年にこの地に移設されたもの。中に入れていただいたら、懇切丁寧にいろいろ説明していただけた。能と言えば、横浜では、称名寺の薪能が有名だが、能舞台はその都度臨時で設営している。常設の能舞台が市の管理下にあるのは実は私は知らなかった。ところが、話を聞かせていただいた方の話では、能はめったに上演できないとのこと。理由は費用が膨大で、とても採算が取れないのだそうだ。横浜には別に横浜能楽堂があるので、観客席の少ない久良岐能舞台では確かに厳しいのであろう。時々、イベントも催されているが、能舞台としては殆ど利用されていないというのは残念なこと。能自体が武家の庇護によって伝統が維持されてきたという経緯からすれば、能舞台を活用することも難しい時代なのであろう。時代とともに受け入れられるように変遷する芸能であれば良かったのだが、どちらかというと伝統を維持する方向にしか動かなかったことが能を衰退させる原因になっていたのだろう。舞台の写真は、パンフレットより借用。下の写真は、入口です。
 そろそろ久良岐公園の桜も満開になりそうですから、散歩と花見がてらに能舞台をご覧になるのもいかがでしょうか?庭には水琴窟もあり、良い音色を響かせています。

火曜日, 3月 24, 2015

iPhone6カメラ

 最近、iPhone 6の宣伝で、新聞2連版全面広告が掲載されることがしばしばあります。iPhone 6で撮影となっています。いつも感心してしまうのですが、これだけ拡大して、これだけ撮れているというのは、やはりたいしたものです。ネット上にも、過去のiPhoneカメラの比較なども載っていますが、iPhone6はレベルがかなり高くなっています。ここまでの絵が出せるとなると、確かにコンデジが売れなくなるのもむベなるかなと思います。いや、それどころか、下手な一眼以上の性能かもしれません。私の持っている一眼レフカメラとズームレンズのセットよりも、良く撮れているように思っています。iPhoneは単焦点レンズですから、直接の比較は難しいと思いますが、かなり近い領域にいることは間違いありません。しかも、ワールドギャラリでは多くのユーザ(写真家?)の写真からピックアップしていますので、これまでにない効果をもたらしています。従来のカメラメーカで掲載している写真は、特定の一流のプロの写真ばかりです。ですから、一般ユーザにとっては逆効果で「こんなのは私には撮れない」と思ってしまうのです。しかし、アップルの手法は、「あなたでも撮れるのですよ」と語りかけているのです。圧倒的に綺麗な作品を惜しげもなく大量に提示し、撮り方まで解説しているのですから。この戦略は、実に憎いほど上手な方法です。
 アップルにはスマホにカメラが付いていさえすれば良いという発想ではなく、既存のカメラを追い越そうという気迫を感じます。本当に一眼レフやミラーレスは本腰を入れて対抗策を出さないと、かなりヤバイ状況になっていると思います。

日曜日, 3月 22, 2015

子規庵

 台東区、鴬谷駅の近くに子規がその人生の最後の時を過ごした庵がある。NHKの坂の上の雲でも出てきたシーンがまさにそのまま甦ったような質素な家であった。戦災で焼けてしまったが、その後かなり忠実に再現したものとのことである。庭もさほど広いものでもなく、8畳、6畳、4畳半、3畳と台所という平屋の作り。部屋は明るい日差しに照らされていて、健康の為にはよさそうであった。最後を迎えた部屋には、指物師に特別にあつらえさせた机が置かれてあり、その机は、手前側に15センチ四方程度の切り欠きが作ってあった。足が悪くて立膝で書き物をするためであった。
 この小さな庵から病気と闘いながら、数々の作品を生み出していったという。子規にとってはこの庵が全宇宙であり、この小さな空間からあらゆるものを感じ取って、句や随筆にしていたのだろう。
 わたしの心を打ったのは、一角の展示室に、子規の食事の内容が展示されていた部分。とてつもなく、多くのものを口にいれ、滋養に富んだものを摂っていたのだ。体のためを思って、栄養を取れば直す事が出来ると思っていたのだろうが、なんともいじらしいというか、胸が締め付けられる思いをしてしまった。
 帰り道に、近くにあった三平堂という林屋三平の邸宅があった。その対照があまりにもとてつもなく、却って子規が哀れに思えて仕方が無かった。

金曜日, 3月 20, 2015

JFK―その生涯と遺産

 先日、国立公文書館で開催している「JFK―その生涯と遺産」展を見てきました。第35代大統領ジョン・F・ケネディです。
 ケネディが凶弾に倒れたのは、まだ私が中学生の時でした。初めての衛星放送で送られてきたのがケネディ暗殺のニュースで、丁度私の友人が私の家に来て一緒に学校の宿題か何かをやっていた時のことでした。14インチの白黒のブラウン管に映し出された映像は、一生忘れられない記憶として焼き付いたままです。
 ケネディは、当時の日本の政治家と較べようがないほどに恰好のよい政治家でした。中学生でしたから、政治のことは全く判っていなかったのですが、政治家の恰好の悪さだけは印象に残っていました。
 今回の展示で、一番私の気を引いたのは、ケネディの演説です。今もし彼が生きていて演説をしたら、世界のどのリーダーも太刀打ちできないでしょう。まして、日本の政治家の演説ときたら、もうどうしようもないとしか言いようがありません。50年を過ぎてもその演説の輝きは全く失われていないのです。オバマが演説がうまいと言いますが、それはレトリックとして上手いだけで、中身がないのです。
 ケネディの演説は、民衆を引きつけ、民衆を動かす力があるのです。政治家の演説は一歩間違うとヒットラーのように間違った方向に導いてしまうのですが、そういう導き方ではない力強さがあるのです。彼の演説で一番有名なのは『アメリカ国民諸君。国家が諸君のために何をなしうるかを問うのではなく諸君が国家に何をなしうるかを問い給え。』という演説です。彼は、私がやるとは言ってないのです。民衆に勇気を与え、民衆が自らの力で世界を変えていけるように鼓舞しているのです。
 もうひとつ、着目したのは、彼の演説には、難しい言葉が出てこないのです。いわゆる政治用語がないのです。いま、日本の政治家の演説を聴いてみると、言葉だけでは何を言っているのか判らない単語があふれています。『三位一体の改革』『新三要件』『三本の矢』など、それだけでは何か全くわかりません。それは政治家の世界では通用する言葉ですが、民衆には判らない言葉です。(それにしても、三という数字が好きですね。)民衆に判ってもらうのではなく、民衆を煙に巻く演説が非常に多いことに気が付くと思います。ケネディの演説には、民衆を煙に巻くような言葉は出来てきません。自慢もしません。 ケネディの清新さはそういったところにもあったのかもしれません。